スクリーンを捨てた子どもたちが叫ぶ「ちんぷくまんぷく」――2026年、なぜ劇場版『めっきらもっきら』に大人が涙するのか
めっき ら もっ きら ど おん どん 劇の幕が上がった瞬間、劇場の空気が一変した。客席の静まり返った闇を裂いたのは、耳慣れない呪文の連打だ。舞台中央にぽっかりと黒い口を開けた巨木の洞から吹き出すのは、プロジェクションマッピングの光ではない。役者たちの荒い息遣いと、床を激しく踏み鳴らす木靴の重低音、そして客席の子どもたちから漏れる悲鳴まじりの歓声である。1985年の傑作絵本が世に出てから40年余り。2026年の今、全国の公共劇場や小劇場、さらには幼稚園や保育園の現場で、この作品を舞台化した劇が驚くべき熱気をもって再燃している。タブレット画面のなめらかな映像に囲まれて育つ現代の幼児たちが、なぜ泥臭く奇怪な異界の宴にこれほどまで熱中するのか。その最前線を追った。
初夏の日差しが照りつける週末、都内劇場の前には開場前から長い行列が伸びていた。ベビーカーを押す若い夫婦の横で、白髪の祖母が孫の手を引いている。三世代が同じ目線で語り合える作品はそう多くない。かつて自身が園の発表会で妖怪役を演じたという30代の男性は、「我が子が同じ劇に夢中になっているのが不思議でたまらない」と目を細めた。長年にわたり教育現場や児童劇団の手で試行錯誤されてきためっき ら もっ きら ど おん どん 劇は、単なる発表会の定番プログラムという枠を完全に踏み破り、五感を奪われたデジタル世代の身体を覚醒させる「生々しい祝祭」として息を吹き返している。
「ちんぷくまんぷく」の咆哮が揺さぶる、2026年の息苦しさ
「遊ぶ相手がいない」――物語は主人公かんたの、どうしようもない苛立ちから幕を開ける。誰もいない神社、うだるような暑さ、友だちのいない放課後。八つ当たり半分に口をついた出鱈目な呪文「ちんぷく まんぷく るかんぷく、めっきら もっきら どおん どん」が、現実の裂け目をこじ開ける。
2026年の児童環境を見渡せば、放課後の自由な群れ遊びは激減した。公園には禁止看板が乱立し、放課後は習い事や整然とした学童保育のスケジュールで埋まる。そんな息の詰まる日常を生きる現代の子どもたちにとって、かんたの理不尽な怒りは痛いほどリアルだ。演出を手がけるベテラン劇作家は言う。「怒りを叫び、めちゃくちゃな言葉を放り投げる。それだけで世界がひっくり返るという体験が、今の子どもたちには圧倒的に足りていない」。劇中の呪文が唱えられた瞬間、客席のそこかしこから小さな声が湧き上がり、やがて劇場全体を巻き込む大合唱へと膨らんでいく様は圧巻だ。
保育現場で今なお「劇あそび」の最高峰とされる舞台裏
保育士や幼稚園教諭の間で、本作は今も昔も「特別な演目」として敬意を払われている。理由は明確だ。善悪の二項対立が存在しない点にある。
勧善懲悪のヒーロー劇なら、誰が主役をやるかで揉める。しかし、夜の世界に登場する3人の妖怪――しっかかもっかか、もんもんびゃっこ、おたからまんちん――には、倒すべき敵も懲らしめるべき悪人もいない。彼らはただ、かんたの持っている「お宝」に目を輝かせ、縄跳びをし、モグラのように地面を掘り、風のように宙を飛ぶ。純粋な「遊びの化身」なのだ。セリフをきっちり記憶して立ち位置を守るような管理型の劇ではない。子どもたちが自分の体をめいっぱい使い、怪鳥のように跳ね回るだけで成立する。身体の解放を目的とした幼児表現教育の最高傑作と呼ばれる所以がここにある。
しっかかもっかか、もんもんびゃっこ、おたからまんちん――奇怪な3妖怪の造形美
舞台化において最大の難関であり、同時に最大の見せ場となるのが3妖怪のビジュアルだ。ふゆじなの氏が描いたあの不気味で愛嬌のある造形を、いかに生身の人間やパペットで具現化するか。各劇団の腕の見せ所である。
ある劇団では、伝統的な和紙と竹ひごを用いた巨大な頭部を役者が担ぎ、狂言を思わせるすり足で舞台を練り歩く。またある舞台では、布と影絵を組み合わせ、妖怪たちが闇に溶けていくような不気味さを際立たせる。緑色の毛むくじゃらで素早い「しっかかもっかか」、狐とも獣ともつかない白く優美な「もんもんびゃっこ」、おはじきを欲しがる欲張りな「おたからまんちん」。奇怪でありながら、どこか抱きしめたくなるような手作りの質感。高精細なCG映像に慣れきった子どもたちの目が、舞台上の粗い布の質感や役者の汗に釘付けになる。
暗闇と吸い込み:デジタル演出を拒んだ「アナログの底力」
近年、演劇界でもLEDスクリーンやホログラムを用いた演出が主流になりつつある。しかし、2026年に各地で上演されているこの舞台の多くは、驚くほどアナログな手法に回帰している。
かんたが巨木の洞に吸い込まれる決定的な場面。舞台上では巨大な黒い布が一気に客席上方へと広げられ、風が吹き荒れ、パーカッションの乱打が鳴り響く。視覚を頼りにするのではなく、風の冷たさ、太鼓の振動、空気の圧迫感で「穴に落ちる恐怖と浮遊感」を観客の皮膚に刻み込むのだ。終演後、5歳の男児が「本当に木の穴に入っちゃったみたいだった」と興奮気味に母親の手を引っ張っていた。疑似体験を越えた、生の劇空間でしか味わえない身体的な震撼がそこにある。
「おかあさん」の一言が暴く、ファンタジーの孤独と帰還
この物語が大人たちの涙腺を容赦なく刺激するのは、終盤の鮮烈な幕切れゆえだ。妖怪たちとの尽きることのないどんちゃん騒ぎ。木の上でお餅を食べ、腹を抱えて笑い転げる夜。永遠に続くかと思われた快楽の頂点で、かんたはふいに口を滑らせる。
「おかあさん」
その一言が発せられた瞬間、妖怪たちの表情が凍りつき、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。あれほど親密だった世界が、たった一つの現実の言葉によって音を立てて崩壊する残酷さ。舞台上に残されたのは、静まり返った昼下がりの神社と、ひとりぼっちのかんただけだ。ポケットに手を突っ込むと、妖怪たちと交わしたはずの証拠が虚しく残っている。この圧倒的な孤独感と、日常へ連れ戻された瞬間の切なさは、かつて子どもだったすべての大人たちの古傷を激しく疼かせる。
親から子へ手渡される「泥だらけの記憶」とこれからの劇場文化
劇場の外に出ると、夕暮れの街には普段通りのアスファルトと車の群れが広がっている。だが、舞台を観終えた子どもたちの歩き方はどこか違う。神社の生け垣を覗き込み、街路樹の根元にある小さな洞に指を突っ込んでみせる。日常の裏側に広がる「もう一つの世界」の扉を、彼らは知ってしまったのだ。
チケットの完売が相次ぐこのリバイバル現象は、単なる名作の消費ではない。効率化と安全性の名のもとに漂白された現代社会において、泥にまみれ、妖怪と叫び、母親を求めて泣くという原初の感情体験を、親たちが本能的に我が子へ手渡そうとしている証拠ではないか。劇場という暗闇の中で、世代を超えて共有される「ちんぷくまんぷく」の叫び声。それは、どれほど時代が移り変わろうとも、子どもの魂が決して手放してはならない自由の狼煙である。 (出典: めっき ら もっ きら ど おん どん 劇(Yahoo!ニュース))